<淡河町> 名所・旧跡

石峯寺

石峯寺(しゃくぶじ)は神影(みかげ)地区にあり、神戸市内では有数の古刹の一つです。孝徳天皇の勅願寺として白雉2年(651年)、法道仙人によって開山されたと伝えられています。 薬師堂、三重塔は、国指定の重要文化財になっています。また、寺背の88ヶ所の奇岩や小径には、中世の石造物が点在し、寺の歴史を物語っています。特に、毎年3月に行われる「火渡りの行」は有名で、多くの参拝客が訪れます。

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(石峯寺へは、県道三木三田線「好徳小前」交差点から車で北西へ約10分)

淡河八幡神社

勝雄地区にある淡河八幡神社の由来は古く、奈良時代末期の宝亀10年(799年)に表筒男命(〇〇〇のみこと)を祭神として創建されたと伝えられています。その後、淡河氏、有馬氏、明石藩主松平氏、姫路藩主池田氏の崇敬祈願所となっています。 神社の氏子としては、淡河町14地区に加え、三木市志染町の2地区の16地区がなっており、10月の秋季例大祭の御旅神事や2月の御弓神事は、これら16の氏子集落が4分して輪番で神事を執り行います。

(淡河八幡神社へは、バス停「八幡前」から徒歩直ぐ)

淡河城址と萩原城址

淡河城址は、本町地区にある「道の駅・淡河」から南側の高さ20mの丘上にあります。城地は南北約500m、東西約200mの敷地に、壮大な切岸(人工的な崖)を備えていましたが、ほ場整備のため大半の遺構・地形は失われ、現在は本丸と二の丸、水濠跡の一部が残されています。また、二の丸の東端に竹慶寺の跡があり、境内には淡河家廟所が残されています。

萩原城址は、萩原地区の東端の淡河川へ南から突き出した台地上にあります。淡河氏により創築されましたが、後に有馬氏に攻め込まれ、有馬氏の城となりました。 当時の萩原城は、淡河川に沿って二の丸、西の丸を備え、最高所に本丸を配置する構えでありましたが、現在はほ場整備のため地形が大きく変えられ、本丸跡周辺に空掘や土塁が残るだけです。

(淡河城址へは、「道の駅・淡河」から登り道で徒歩約10分、萩原城址へは淡河連絡所から南西へ徒歩10分)

淡河本陣跡と宿場

本町地区にあるバス停・淡河本町北の辺りに、県道の北側に平行して旧宿場町の通り(湯ノ山街道)があります。三木の別所氏を滅ぼした羽柴秀吉は、当時20軒ほどの民家しかなかった淡河に注目し、楽市令の制札を掲げ、宿場町として整備するよう有馬氏に命じました。江戸期も東播と北摂を結ぶ湯ノ山街道の宿場町として栄えました。

旧街道筋と国道が交わる東北角にある淡河本陣跡は、江戸時代初期に明石藩主等の宿泊用に設けられました。現存する建物の一部は、宝暦年間(1751年から1764年)に再建されています。現在本陣跡は、西側を土塀、東側をブロック塀が囲み、棟門も閉じられており、残念ですが内部は公開されていません。ただ、内部を見た人の話では、屋根の棟飾りに七福神や仙人像を配し、玄関には式台があり、大名宿舎として利用された本陣の構えがうかがえる造りとなっているとのことです。

(淡河本陣跡と宿場へは、「道の駅・淡河」から北へ徒歩2~3分)

観音堂と農村歌舞伎舞台

観音堂は南僧尾(みなみそうお)地区にあり、承和7年(840年)に創建されたと伝えられています。辻堂形式で全体は和様で、室町時代後期の様式を残しているため、県の重要有形文化財に指定されています。

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農村歌舞伎舞台は、北僧尾(きたそうお)地区にある厳島神社の境内にあり、安永6年(1777年)建立の棟札が残されています。創建当時のままの姿を残しており、現存する舞台としては日本最古のもので、県の重要有形文化財となっています。

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(観音堂と農村歌舞伎舞台へは、「本町」交差点から国道428号で北へ、途中僧尾橋手前を右折して車で2~3分)