淡河の歴史

古代の淡河

淡河町の歴史はまことに古く、遥か縄文人の登場から始まっています。町内にある萩原遺跡や中村遺跡等からは、この時代の多くの石器や住居跡が発掘されています。時代を経て飛鳥期には、淡河に「泡河湖(アワゴコ)」という大きな湖があったという伝承があります。その後、湖の水位の低下や干拓事業の進展により、江戸中期以降には湖がなくなったようです。本町(ほんまち)地区にある歳田(さいた)神社は、奈良時代末期に湖が干拓された時、水神を祀って建立されたといわれています。

中世の淡河と室町時代の経塚

鎌倉時代、承久の乱の後、北条氏一族の北条朝盛が淡河地頭職に任じられました。その時、淡河庄(荘)の名前を取って「淡河」を名乗ったのが、淡河氏の始まりといわれています。淡河氏は、その後戦国の末期まで、淡河城を拠点にこの地を統治していました。 最近、勝雄地区の山中から発掘された経塚は、経筒の銘文に享禄3年(1530年)と刻まれており、室町時代のものと判明しています。経塚とは、平安時代末期に流行した末法思想を受けて、釈迦入滅から弥勒出現までの経典を保存する願意のために経を埋納した塚です。勝雄経塚では、法華経8巻が完存していました。

淡河城と萩原城

淡河城は、鎌倉時代からの淡河氏の居城です。淡河氏が南北朝時代に、播磨守護職の赤松氏に反して南朝方に属したため、この地域は南北朝騒乱の激戦地になりました。 室町末期から戦国にかけて、淡河氏は一時、東播で勢力を誇りましたが、その後、三木の別所氏の配下となりました。別所氏が織田信長に反抗した際、淡河氏も行動を共にしましたが、羽柴秀吉により淡河城は落城しました。その後、秀吉の命で有馬則頼が淡河城主となりましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により、淡河城は取り壊されました。 萩原城は、淡河町萩原地区の台地上にあり、淡河氏によって創築されましたが、後に有馬氏が有馬郡から攻め入り、以後は有馬氏が城主になっています。

羽柴秀吉の制札

天正7年(1579年)、羽柴秀吉は、淡河の町に対して、商業の中心として月6回の定期市を開くことを許可し、市(いち)に税金を徴収しない「楽市」とすることなどを定めた制札を掲げました。制札は、翌天正8年にも出されています。 平成16年、淡河町自治協議会と神戸市、神戸大学地域連携センターの共同事業により、本町地区にある歳田神社で、この制札2枚が発見されました。実に400年以上の時を経て発見された貴重な文化財といえます。

淡河本陣と宿場町

六甲山系の北を経由して播磨へ向かう道は、名湯・有馬(湯ノ山)を抱えていることから湯ノ山街道と呼ばれていました。元和3年(1617年)に明石藩が成立しましたが、淡河町は江戸時代を通じ明石藩に属し、この湯ノ山街道の宿場町として栄えました。 淡河本陣は、江戸時代初期に明石藩主等の宿泊用にと整備されました。明石藩主の松平直明は、たびたび淡河を訪れ、淡河川で魚取りに興じた後、本陣で泊まり、捕まえた鯉を食したとの記録が残されています。

淡河疎水と淡河頭首工

淡河疎水は、播磨平野の東端・印南野台地(神戸市西区神出町・岩岡町、加古郡稲美町)の灌漑のために計画され、明治21年(1888年)に着工されました。淡河川から総延長26.3kmの水路で導水するもので、難工事の末、3年4ヶ月の工期と約8万4千円の工事費で明治24年に完成をみましたが、翌明治25年7月の豪雨により壊滅的な被害を受けました。その後、約18万円をかけて災害復旧工事と改良工事を行い、明治27年(1894年)に復旧工事が完了し通水が始まり、この地域の稲の生産が飛躍的に増加しました。 頭首工(とうしゅこう)とは、川に横断して設けられた堤で、水量の調節や土砂の排出機能を持っています。木津地区にある淡河頭首工は、昭和30年(1955年)に改修されたものです。その後、国営東播用水事業により、平成5年に機能改善がなされ、近代的な頭首工になっています。

神戸市との合併

昭和28年(1953年)に「町村合併促進法」が施行され、人口8,000人をめどとして合併が図られました。翌昭和29年、当時の美嚢郡上淡河村および淡河村は、神戸市との合併を希望し、神戸市と合併交渉を始めましたが、交渉は容易に進展しませんでした。 交渉の中で、「県から求められている上淡河村と淡河村が合併するなら」との神戸市の示唆を受けて、昭和32年に上淡河村と淡河村とが合併し、新しい淡河村が誕生しました。その後、淡河村として神戸市と合併交渉を進めた結果、昭和33年(1958年)2月1日にようやく村民の悲願であった神戸市との合併が実現しました。 平成20年(2008年)2月には、合併から50周年の節目の時を迎えています。